よく見たら昨年の11月から更新しておりませんでした。。。
言い訳は色々とあるのですが、これはダメなやつですね、反省せねば。
その言い訳の一つに冒頭の「カツオサミット」登壇があるのですが、折角なので備忘録も兼ねて発表内容を綴ろうと思います。
「かつおサミット」で話をさせていただく事になって、カツオにちなんだ事として頭に浮かんだのは「なぜ焼津でカツオの水揚げが多くなったのか」でした。
私が物心ついた頃には、毎日水揚げがあって父が朝早くから長靴を履いて魚市場に行くのが当たり前の日常でした。
市内には大きなデパートが3つあって、商店街には人が溢れている。
焼津港は東洋一の漁港と言われて、教科書にも載っていました。
今は昔の事ですが、確かにその時代はありましたし、その時代を作ってくれた先人たちがいました。
今、我々はその先人たちが作ってくれた道の先にいます。
この機会を頂いたことで、改めて自分の仕事がどのような道筋を辿って今にあるのか勉強することが出来ました。
鰹と焼津の関わり合い
カツオは日本人にとって最も馴染みのある魚の一つであり、万葉集にある浦島太郎の原型ともいわれる水江の浦の島子がカツオとタイを釣って7日も家に帰らずに海原を漕いでいくうちに海神の娘に会って常世の国に行くとあります。
また、兼好法師の徒然草にも、鎌倉でとれるカツオについての記述があります。
今でこそ遠洋で漁獲されるカツオですが、江戸期から明治初期までは駿河湾内で漁獲されたそうです。
焼津の基礎となったのは、北新田、城之腰、鰯ヶ島の三か村で、耕地が少ない場所でしたが漁業のほか出作りや廻船業を行って農地不足を補って生活していました。
またこの地域は住宅密集により、台風や高波といった水害リスク、海岸からの強風による火災リスクから地域の団結心を醸成し、町全体が運命共同体的な考え方を持つようになったのだそうです。
そのためか、現在においても水産業界において同業他社でも商売仲間といった感覚は残っています。
徳川時代から鰹漁業が盛んに行われた旧三ヵ村では、鮮魚貯蔵方法が未発達だったことと交通機関の未発達だったことから鮮魚販売圏は駿遠地方に限定されていて、大部分の鰹は地元加工業者の手で加工され販売されていました。ほぼ幕末に近い状態だと考えられる明治18年の焼津戸長役場の調査書には、物産の項に鰯ヶ島鰹節312斤(187,2kg)、城之腰村25,000斤(15,000kg)、北新田村8,000斤(4,800kg)の産額が記載されており、徳川時代よりすでに地元鰹漁船の供給する鰹を原料とする水産加工業が成立していたと言えます。
さて、そんな田舎の一漁村がどうやって東洋一の漁港とまで言われた港になったのか、遠洋冷凍カツオの一大集積地となったのか、紐解こうと思います。
焼津にとってターニングポイントなった事柄は3つあったと考えます。
まずは、明治22年に鉄道が開通したことで販路が飛躍的に拡大する事になります。
もともと宿場町ルート案だったものが、宇津谷工事費及び短距離化のため日本坂ルートとなり、焼津駅が誕生することとなります。
これによって、東京まで船で2日かけていた荷物が1日で届くようになり、東だけでなく西にも販路を拡げることが可能となりました。
このため鮮魚出荷業務のみならず水産加工業も急速に発展し、地元漁船が提供する鰹だけでは加工品の原料が不足する事態が生じることとなりました。そのため東北その他の地方より移入した荒節を仕上節に加工するなどしていたそうです。また生利節も駿遠地方などの一部地域の需要を満たす程度に過ぎませんでしたが、鉄道開通後関西市場向けの製造量が著しく増加しました。これら二種以外にも「かまぼこ」「塩辛」「花鰹節」等の製品を対象とする加工業も発達していきました。
まだ無動力船時代であった頃の漁獲物取引方法は仲買問屋が各得意船の漁獲物を個別に集荷し、一定の手数料を徴取して委託販売していました。
鉄道開通後各問屋における取り扱い数量が急増し、従来のやり方では急速な市場拡大に対応していくことが困難となり、明治23年まず鰯ヶ島の仲買問屋は合同して駿南水産合資株式会社を設立、ついで城之腰、北新田の仲買問屋もこれに倣い、各村ごとに卸売機関が単一化されましたが、狭い地域に同業三社で競争するため弊害も多く、明治36年に三社合同の上、○三焼津水産合資会社が発足し、魚市場が単一化され生産者と魚市場を結ぶ流通秩序が確立します。
魚商と魚市場間の取引関係を見ると、明治25年に各村の水産会社は焼津水産製造販売組合との間に契約を締結、代金滞納者を生じた場合には町内弁償法を実施し、明治31年には三会社がおのおの別に抵当を提供せしめるなど一連の制裁規定を設けて仲買人の未払い代金の発生を防止し、明治39年新会社と仲買人の共同寄付金で焼津水産会が生まれ、ここに生産者、魚市場、仲買人の三者を結ぶ流通機構の近代化が実現した。
また、この時期より氷蔵による鮮度保持が次第に一般化していくこととなり、陸上輸送のみならず動力化され漁場の広がった漁船の保冷にも一役買っていきます。
明治39年、国内初の動力漁船「富士丸」進水。
焼津に岸壁がなかったため、清水を母港としました。投資額が9,212円余だったのに対して、十数回の試験航海を行ってのカツオの売却代金は1万円近かったとのこと、投資以上の大きな利益を産むことが証明されました。
ちなみに明治26年の三か村の年間漁獲高は合計49,986円で、鰹が総額の約60%を占める純漁村であったそうです。
これを受けて動いたのが、魚商であった片山七兵衛(当時49歳)。明治40年、資本金3万円をもって東海遠洋漁業会社を立ち上げます。明治44年の営業報告によると、発行株式600株のうち、最大の株主は120株の広幡村の大地主であった焼津銀行頭取の甲賀英逸、ついで80株の魚商・池ヶ谷英太郎、70株の村上令一は和田村の地主でした。
この翌年である明治41年6月に有限会社焼津町生産組合が設立されました。
組合の理事長は山口平右衛門(当時54歳)、理事には焼津の船元、銀行家、魚商などが名を連ねており、組合員257名、出資金は5万円でした。
動力船の効果は絶大であり、以下のように年々スペックが上がっていきます。
- 明治40年 25トン 20馬力 八丈島沖合まで出漁
- 第一次大戦終了当時 30~40トン 50~60馬力
- 大正9年 55トン 100馬力
南は鳥島付近、西は潮岬沖合、東は銚子沖を主とし、大型船は土佐沖に出漁 - 大正13年 無線電信電話の設置 75トン 150馬力
- 昭和6年 127トン 225馬力
- 昭和12年 154トン
大正元年に赤坂鉄工所をはじめとする発動機を製作・修理する工場も著しく発展し、その後の焼津への船の集積に一役買っていくこととなります。
鰹船の大型化にしたがって、行動半径の拡大、魚群追跡力の増加、水揚げ地の季節的移動が可能になったため、漁期が延長し、漁獲高も増加しましたが、鰹のみを対象に操業する限り漁閑期(10月より翌年2月まで)に船体上架による休漁を免ず、この間漁師は鮪漁業をはじめ、各種の沿岸漁業に従事しなければなりませんでした。
鰹の漁閑期における漁船の遊休状態を克服しなければならなかったので、大正4年ごろより比較的小型の漁船を使用して冬季に鮪延縄漁業を開始しました。鰹釣、鮪延縄の両漁業を結合して遠洋漁船の周年操業が可能になり、遠洋漁船の稼働率向上につながることとなっていきます。
昭和初期に金融恐慌から起こった深刻な不況で魚価は急落し、造船費や航海経費の増加が船主法人の経営を圧迫していきました。
戦争の影響も色濃くなり、昭和13年から燃油や鋼材が統制され、昭和15年からは漁船の軍事徴用も始まって大きな打撃を喰らいます。
そして昭和16年、太平洋戦争に突入すると、戦場に漁船と若い労働力を取られた漁業は壊滅的な状態に陥ります。
◯東と◯生の漁船は昭和18年、企業統合政策によって新設された昭和漁業株式会社に移譲され、◯東は焼津鉄工株式会社、◯生は焼津信用金庫となりました。
同様に焼津魚市場の事業も◯三焼津水産株式会社から焼津漁業協同組合へ同年譲渡されました。
さて、この太平洋戦争前後のこの時期においても未だ焼津漁港は存在していません。
焼津の海岸には入江がなく、黒石川の河口部を船溜まりとして使う程度で、小型船は漁のたびに浜に引き揚げていたそうです。
小泉八雲の随筆「焼津にて」の中で、当時の焼津の浜について記載されています。
(防波堤と海の間に砂はなく、ただ石の、主として丸石の、灰色の斜面があるばかり。)
明治の頃の様子ですが、昭和に入り終戦を迎える頃まで浜の様子はあまり変わらなかったようです。
八丁櫓の頃から次第に大型化していった漁船は、沖合に停泊したまま伝馬船によって陸に運ばれていたのです。さらに台風などで海が荒れると船は浜に近寄ることができず、隣の清水港に避難してしまうことが多々あったそうです。
昭和に入って築港のため町長や漁師たちが県や国に何度も足を運び、町を挙げての熱心な働きかけを行なった結果、昭和14年に本格的な築港工事が始まりました。
7ヵ年計画でスタートしたものの、昭和16年開戦によって頓挫することになってしまいます。
工事の再開は8年後の昭和24年の暮れ、第一次から第三次漁港整備計画に約17億円が投じられ、昭和26年3月の焼津市施行と足並みを揃えて6月に焼津港一期工事が竣工しました。
昭和21年からの焼津での水揚げ数量(カツオ・マグロ含む)を見ていくと、
昭和21年 3,700t
昭和22年 4,100t
昭和23年 6,400t
昭和24年 6,200t
昭和25年 17,600t
昭和26年 37,200t
昭和27年 45,900t
昭和28年 47,400t
昭和29年 55,000t
昭和30年 65,800t
昭和31年 80,100t
昭和32年 100,000t
上記のようになっています。
昭和25年末から試験的に岸壁が使用されていたといいますから、港が出来た効果は数量として如実に現れています。
焼津港を三浦三崎や清水と比較すると、城ヶ島に遮蔽された良港湾であり大市場に近い三崎、三保岬に抱かれ東海地方随一の良港として古くから栄え、明治末期には日本一の茶輸出港に躍進し、築港工事が進むにつれ造船・製材・食油等の諸工業が起こった清水。
片や、駿河湾に面する全く平滑な砂浜とも言えない海岸に立地しながら、古くから鰹漁業とその加工業を発達させてきた焼津。
ただ、港が出来ただけではいくら地元船と言えども、船は入って来てくれません。
では、何故三崎でも清水でもなく焼津に船が入り、順調に水揚げ数量金額ともに伸ばしていったのでしょうか。
昭和42年の仲買人数を比較してみると、
三崎 208人 (うち鮮魚出荷158人)
清水 90人 (うち鮮魚出荷10人)
焼津 480人 (うち鮮魚出荷86人)
と、仲買人数で圧倒するだけでなく、鰹節・生利節・缶詰・佃煮といったおびただしい水産加工業があったことがわかります。
また、同じ年の陸上冷凍施設を比較すると、
三崎 7件/86t
清水 22件/247t
焼津 30件/405t
と他所よりも庫腹が多くなっています。
これは昭和30年代から漁船に装備されるようになった冷凍設備の能力向上に伴い、陸上におけるコールドチェーン確立のためにも必要不可欠のものであります。
この2点が他港より優れていた点が、地元漁船のみならず他県の漁船を誘致する際に大きな武器となり、また現状維持するだけでなく更に発展させていくことでより多くの集荷が可能になっていったのでしょう。
この武器を作ってくれたのは、鉄道開通に乗じて商売の幅を広げていったこと、動力船誕生と同時に自ら新しい組織を作り上げていち早く導入することで更に扱い数量を伸ばしていった先人たちのおかげにほかなりません。
この昭和30年代から40年代は焼津が最も活況を呈した時期で、港の活況が街の賑わいを盛り上げてくれました。
昭和50年代に入り、南方漁場を主とする海外まき網船が急速に発展し、焼津港は全国の海巻船が集中する水揚げ基地となりました。
これは集中して水揚げされても処理可能な多様な加工業者が存在し、清水を含んだ全国一の缶詰工場群があったこと、さらに外港の建設によって向上した漁港機能と背後にある冷凍保管能力や仕込み業者・メンテナンス事業者らが総合的に支えてきたおかげであります。
上のグラフは昭和57年から令和4年までのおよそ40年間の焼津港における「水揚げ数量」の推移となります。
マグロと比較していかにカツオの水揚げ量が多いのかがお分かり頂けるかと思います。
しかし、そのカツオはグラフが示す通り右肩下がりとなっています。これには漁港間の競争であったり漁獲量の減少であったり様々な要因があります。
ただここ何年かで大きく減少している事実がここにあることを認識せねばなりません。
華やかだった昭和を過ぎて平成を経て令和のこの時代、この状況から我々は何をしていかねばならないのか、また何ができるでしょうか。
人口減少社会となった今、活用できるもの何か、先人たちであれば真剣に考え、どこよりも早く導入するための努力をしたと思います。
MSCやM E Lといった持続可能な漁業を証明する認証制度もあります。
H A C C Pといった海外輸出が可能になる認証制度もあります。
もしかしたら我々が見落としている有効な別な手段があるかも知れません。
もっと真剣に今の事業と向き合っていかねばと襟を正す次第です。
参考資料
株式会社いちまる 150年史
静岡新聞社 焼津かつおぶし物語
マグロ遠洋漁業の発展と三崎・焼津・清水 土井仙吉
焼津漁港の発達 古川史郎
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